生物工学と私(3)生物工学を「夢」みる(AIジャーナル誌寄稿より)

2025 年11月17日

鈴木良次

 1986年6月に発行されたUPUのAIジャーナル*4号に「生物工学を「夢」みる」と題して寄稿した拙文の一部を紹介したい。(*1985年12月から1987年12月まで隔月で発行された総合誌で、近年電子版が復刻されている。当時のAIの研究状況を知る上で貴重な資料)以下、拙稿の抜粋。文中の註はこの掲載に当たってつけたもの)

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 私が大阪大学に赴任したのは、1969年7月(註 まず兼務から、翌年4月から本務)。当時ここも他大学の例にもれずいわゆる紛争の渦中にあった。基礎工学部もその対策に連日追われていたが、4年生の卒業のタイムリミットを考えて、その年の秋、中之島にあった理学部の旧校舎を使っての授業再開に踏み切った。

 授業再開には、当然、学生側の反発があった。しかし、学生と話し合う機会のないまま時間だけが経過していく状況で、私は授業再開に期待した。専門課程に進学してきた生物工学科の第1期生に、生物工学の「夢」を伝えたかったからである。まことにおこがましい限りであったが、学問の現状に不満があっての闘いであるなら、生物工学の課題を背負い込むことこそが、現状打開の道であると、学生に説ききたかったのである。

 私の担当する「生物情報論」の講義に割り当てられた教室には、当の3年生が待っていたが、スト中の学生に同調する教員や院生も大勢集まっていて「授業を始めないよう」迫った。私が3年生に彼らの意見をたずねたところ、賛成数名、反対1名、他の多くは意思表示をためらうという状況であった。

 授業という名目を通すことが困難な中で、「生物工学が何をめざした学問であるか」を十分とはいえないが、学生に語りかけることはできた。しかし新聞には「1時限目の授業再開できず」と報じられていた。

 私が授業再開の第一弾になったという事実を、すでにほとんどの人は忘れてしまったと思う。しかし、私には、この日のことが、大げさに言えば、原罪意識として今でも残っている。それは私が授業を再開しようとしたからではない。(中略)あの日学生たちに語ったことへの責任が自分なりにとれていないと思っているからである。

 私はその日、黒板に、ウイナー、シャノン、ノイマンという3人の巨匠の名を書いた。そして、現在の技術体系がこの3人の仕事の枠組みの中にあり、生物工学はこれを乗り越えるものでなければならないと語った。

 実は、大阪大学に赴任するに先立って、それまで過ごした東大、MIT、東京医科歯科大学での9年余りの経験をもとに、生物工学についての自分なりの考えをまとめていた。それは、当時筑摩書房から出版された『生物学のすすめ』(渡辺格先生編集)に収められている。その内容を学生たちに伝えたかったのである。

 それは「生物工学」をあくまで一つの技術思想としてとらえ、その背景と役割を分析したものである。

 生物工学という言葉は、今日(註1986年当時のこと)では、遺伝子工学などいわゆるバイオテクノロジーを指すことが多い。しかし、私たちは、1960年に始ったバイオニクスを生物工学と呼んでいた(註 阪大の生物工学科をバイオニクスの学科と関係者全員が認めていたわけではない)。ご承知の通り、この年の9月、アメリカのオハイオ州にあるデイトンという町で、第1回バイオニクスシンポジウムが開かれた。この町はライト兄弟ゆかりの土地で、1966年のシンポジウムには、私もここを訪ねている。第1回のシンポジウムには、電子工学をはじめとして、数学、心理学、生理学などの分野から700名もの研究者が集まったといわれている。彼らは「複雑な工学上の問題を解決するのに、生物の機能とその動作原理とを研究することが極めて有効ではないか」と期待していた。

 このようなシンポジウムが開かれた背景として、技術評論家リンドグレン氏は、週刊技術ジャーナル「エレクトロニクス」の1962年2月9日号から3月16日号で分析し、次の4つをあげている。すなわち、(1)サイバネティクスや情報理論などの学問の進歩、(2)電気生理学の発達、(3)エレクトロニクスの発達、(4)技術上の課題が、ますます、複雑でむずかしくなったこと。要は、生物の優れた機能を調べる理論や技術がかなりよく発達したので、その結果を使って、新しい工学装置の開発をやってみようというのである。

 私は、リンドグレンのこの分析を踏まえて、ウイナーのサイバネティクス、シャノンの情報理論、ノイマンの電子計算機が、生物の機能、とりわけ、パタン認識の能力の理解にどれだけ有効であるかを考察した。戦後の技術体系が、この3人の巨匠の手のなかにあることは認めながらも、生物の理解には限界があると見た。また、神経生理学が頼りにしている微小電極法も、早晩、行きづまると書いた。今から思うとはなはだ粗雑な分析ではあったが、結論は今日(註 1986年のこと)でも変える必要はない。

 では、「生物工学」は何をしたらよいのか。「生物工学」が「工学による生物の理解ではなく、生物の論理にもとづいた新しい技術体系の開発をめざすものであれば、現在の技術体系には取り入れられていないが、なお、生物の持っている論理とは何かを探求することである」と書いた。そして、この作業の一例として、ヒトでの起き直り行動の観察・実験を通じて、自律分散制御の論理に到達した話を紹介した。その後で、「生物工学者」の役割を「生物とつき合い、そこから生物に固有の、あるいは、少なくとも工学には応用されていない論理を見つけ、数学を導入することによって、あたらしいシステム理論を体系づけることだ」と結論していた。

 それから16年(註 本稿を執筆した1986年当時のこと)、ここに書いた方向は、大筋として正しいと思っている。しかしその間に、私自身のなし得たことがあまりにもわずかである故、授業再開へのこだわりを感じてしまうのである。

 (後略)

 この後、この文章は、生物工学科での学生を巻き込んでの試行錯誤の営みへと続くが、版権の関係もあり、別の形で伝えたい。

 

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