生物工学と私(2) 「生きものらしさ」を求めつづけられた大沢文夫先生
老々介護の一日一日があわただしく過ぎていく中で、我が家の書棚で、いつも気になっていた一冊の本がある。大沢文夫先生のご著書『「生きものらしさ」をもとめて』藤原書店2017年5月刊である。これは原田慶恵さん(阪大院大沢研出身)を通して、大沢先生からお贈りいただいたもので、感想を求めておられると原田さんからお聞きしていた。それが果たせないうちに、刊行から2年足らずで、大沢先生はご逝去された。それからさらに6年も経ってしまった。今更ではあるが、読後感を書きとどめ、大沢先生への私なりの追想としたい。
大沢先生のお姿を初めて目にしたのは、1960年、生物物理学会発足の大会ではなかったかと思う。颯爽と演壇に登られた姿を今でも記憶している。その10年後、新設された大阪大学の生物工学科にお招きいただき、以後、親しくご指導いただくことになった。ご著書「生きものらしさを求めて」は、関係・調和・状態という3つのキーワードのついた「はじめに」から書き始めておられる。そこでは、ゾウリムシのような単細胞から人間社会に至るすべての階層で共通にみられるとされる快・不快を取り上げる。そして、「快」が、細胞内の中の分子・分子機構間に始って、多細胞生物の細胞と細胞、そして人と人・人と環境に至るそれぞれの階層での構成要素間での関係が調和のとれた状態のとき「快」になるという仮定を立てられる。そして、この「調和優先」の考え方に立って、「生きものらしさ」とは何かを考える中で、ヒト一人一人が他のヒトとどういう関わり方をもつか、他の生きものと、また自然環境とどういう関わり方をするか、その関係が大事であることを指摘される。さらに、その「関わり方が、ヒト一人一人の自主・自発の心によるところが大きい」として、“生きものの自発性”に話が進んでいく。
I「講演“生きものらしさ”とは何か」で、まず、ゾウリムシが、変動する自然環境の中で常に棲みよい場所を探して、あちこち方向転換しながら泳いでいる様子の紹介から話が始まる。これは自発的運動であり、この自発性は、バクテリアからヒトにいたるすべての生きものに見られる特性と確信され、「自発性」を軸に、「生きものらしさ」を追求されていく。
ここでいうゾウリムシの自発的運動というのは、良い環境を求めて、方向転換しながら、あちこちと泳ぎ回ることである。その方向転換のメカニズムについてII「自発性」で詳しく説明されているが、ここでは「自発性」の特徴として、①仲間が多いほど自発性は大きい、➁仲間が多いほど新しい環境に適応しやすい、③自発性には個体差が大きい、④仲間とのやり取りがある方が個体差が大きくなることをあげられ、これらの事実を人への教訓として語られている。大沢先生は、ゾウリムシの自発性行動を研究しながら、実はヒトだとどうなのかなといつも思われたという。バクテリア・ゾウリムシの自発性からヒトの自由意志(意識、心)に至るまでに段階はあるが、断絶はないということで研究に取り組むことの大切さを強調される。
II「自発性とは?」においては、大沢研の教員や学生と、ゾウリムシなどを対象としてとりくまれた研究の成果が、エピソードをまじえて綴られていて、興味深く読み進むことが出来た。
「生きものらしさ」を代表する一つの性質として大沢先生は「自発性」を取り上げられたわけであるが、その起源を「ゆらぎ」に求められている。
ゾウリムシの泳ぎの自発的方向転換についていえば、細胞膜にある各種イオンチャネルの開閉の熱ゆらぎが、「循環電流」というものの存在によって増幅され、パルス状の電位変化を引き起こし、せん毛の打ち方を逆転させ、方向転換が起こるという。この限りでは、自発性のメカニズムの説明にとどまるが、大沢先生は、ゆらぎの視点から、細胞の分類(大きなゆらぎを創って自発活動を盛んに行う細胞と静かな細胞)、ゾウリムシの自発とヒトの自発の違い、自発の意味の二重性(意志の有無)などに言及されている。
意志があれば目的があるはずと話は目的論につながるが、それはIV「生きものの“ソフト”を問うー結びにかえて」に回され、ここではIII「状態論」が続く。まず、名古屋大学に講義に来られた湯川秀樹先生との話の紹介から始まる。「生物は積み木細工ですね。量子力学のような直感を超えるむずかしいことはなにもありませんね。(後略)」と話されたという。大沢先生は「積み木細工」を「部品主義」という言葉にかえられて、さらに「部品主義」を超えるところに生物らしさを求めて居られる。部品主義という言葉は「全体論と還元論」でいう「還元論」に当たるものであろうが、大沢先生の求めておられるのは「全体論」ではないと思う。ここでもゆらぎに着目し、(ゆれ動く)生きものの中での部品の在りようの理解から研究を進められたという。筋肉タンパク質アクチン分子が試験管内で集合し、長いフィラメントを作る現象の解析、より積極的に運動にかかわっていると思われる真性粘菌のアクチンの解析を通して、生物の運動の分子機械から「やわらかい機械」という概念に到達される。これらの研究が構造一辺倒ではなく、状態に着目しての成果であることを強調されている。
この後「幕間」が続くが、IV生きものの”ソフト“を問う―結びにかえて」に進もう。
近年の生命科学の進捗は著しい。しかし、生命の基本に関していえば、「常識的な」問いに答えようとする努力は十分とは言えないと大沢先生は断じられる。「常識的」な問いとして、「生死のさかい目は」「意識はどこで生まれる」「眠るとはどういう状態」「ヒト以外でも快・不快の感情、喜怒哀楽の気持ちをもっているか」などをあげられている。「現代生物学は現代的質問を見出し、あるいは作り、それを順調に解きつつある。生きものについての古典的質問に関するときと、まったく対照的であり」この状況は本書の内容と深くかかわっていると指摘されている。
最後の「生きものの”ソフト“は?心は?目的は?」では、まず、湯川・朝永生誕百年を記念して開かれた催しの中で、大沢先生が行った生物物理分野のお話を聞かれた基礎物理学者である南部洋一郎さんの質問「今の生物学はハードの学問ですね。生物のソフトはどうなっているのですか」の紹介から始まる。大沢先生も、今の生物学は、もっとも解析的な科学であり、生物部品主義にもとづき、積み木細工的に構成されている。すなわちハードの研究であると認められる。「ソフトに相当するものはどこに、どういう形で存在するのか、プロの生物学者はそういう問題意識を持つことがほとんどないと思われる」とされ、ゾウリムシの行動に見られる自発性の問題をソフトの問題の一つの入り口と位置付けられる。そして、ゆらぎ―自発―経験・意識―意志―目的及び意識―刺激・情報―評価―状態―表現と続くキーワードを囲むものとして、「心(こころ)」があるといわれる。
大沢先生が「ゆらぎ」の研究を本格的にはじめられたという1970年、大阪で生物物理学会年会が開かれ、委員長を務められた大沢先生のお勧めで、曽我部正博さんと一緒に「行動における個性」というシンポジウムを開いた。その時の内容を後年、大沢先生と一緒にブルーバックス「個性の生物学」(講談社1978)にまとめさせてもらった。その第2章で「微生物の個性をさぐる」と題して、分子レベルのミクロなゆらぎが、行動におけるマクロなゆらぎとして現れるメカニズムを詳しく解説していただいた。一方、本書ではその道筋を、研究の現場でのエピソードをまじえて、さらに判り易く説明され、そして、ヒトに至るすべての生き物に通じる課題であることを示されている。
最後に、本書の表題にふさわしく、生きもののソフト、心、目的にまで言及され、「よく生きるとはどういうことか」自問され、その問いに、「生きものらしく生きる。生きものは自然の中で自然に守られて(生きている。だから)自然を守って生きていきたい」と自答されている。( )内は筆者追記。
本書を通読して最も印象に残ったことの一つは、最後に述べられている次の一節である。
すなわち「自然界のすべての生きものは「心」をもっていて、それは各生きものの生まれる過程で自ら身についてくるものであろう。おそらくお互いに共存するためのものであり、争いをするためのものではない。自然界ですべての生きものたちの存在に、互いに調和することが必須であるとくりかえしたが、この調和はヒトが作り上げるようなものではない。生きものたちに内在する心の間から生まれるものである。」「ヒトは何かにつけて自然の中で指導的役割を果たそうと思いがちであるが、それは無理な話である。」「もっとヒトは”遠慮“すべきではないか。」「お互いに遠慮の心があればこそ、生きものたちの調和が保たれるのである。」
「もっとヒトは遠慮すべきではないか」というこの一言が、大沢先生の面影と一緒に脳裏に刻まれた。
<幕間>日本の科学者として では、日本語で考えることの大切さ、問題を解くのではなく、問題を作ることの大切さ、寺田寅彦物理学の面白さ、ニャーニャーと三回鳴く猫の話。このようなお話をもっとお聞きしたかったと残念に思っている。
あらためて、大沢先生のご冥福を祈らせていただく。(2025年10月19日)