生物工学と私(1)塚原先生を偲ぶ
鈴木良次
2025年8月12日
今日8月12日は、御巣鷹山に墜落した日航機事故から40年です。その犠牲となった同僚の故塚原仲晃先生のご冥福をこの場を借りて改めて祈らせていただきます。55年前、阪大基礎工学部が小谷正雄先生を中心に、基礎工学部に生物工学科を設立することが決まり、私もその一員としてお招きいただきました。当時、東京医科歯科大学医用器材研究所において、同所所長増原英一先生、同学医学部生理学教室教授勝木保次先生らのご理解のもと、生物工学(バイオニクス)の研究を進めていましたが、生物工学の研究と教育を推進するには、脳科学の第一戦の研究者との緊密な連携が不可欠という立場から、生物工学科には第一級の脳科学の研究者をお迎えしたいと願っていました。
生物工学のこの立場については、当時出版された渡辺格編「生物学のすすめ」(筑摩書房)の一つの章「生物工学のすすめ」のなかで述べています。そこで、東大医学部生理学教室に伊藤正男先生をお訪ねし、阪大生物工学科創設へのご協力をお願いしたところ、塚原先生をご推薦いただきました。塚原先生とは、若手の仲間としてすでに交流があり、優秀な方と尊敬していましたので、早速、当時、学科の創設にご尽力されていた大沢先生、三井先生に報告し、塚原先生をお迎えすることにご賛同を得ました。当時、基礎工学部での人事は、各教室ごとに、他教室の教授を含む構想委員会というものがあり、そこで人事が審議されていました。塚原先生についても生物工学教室構想委員会に諮られ、教授として招聘が可決されました。当時塚原さんは、東大医学部の助手でしたが、一足飛びに教授に推薦されたのです。この点、阪大の力量の根源のようなものを感じました。その後の生物工学科の神経生理学の教育研究は、ご存知の通り、目覚ましい進展を遂げました。神経生理学と情報科学の分野の交流の一例としては川人さんの貢献がありますが、それを実現できたのは、塚原先生のおかげです。
40年前の事故後も、生物工学科での神経生理学の教育研究は、1期生の村上さんをはじめとする塚原研の教え子たちに支えられてきました。塚原先生をはじめとする520名の犠牲者はもちろん、そのご家族にとっても、この事故は決して許されるものではなく、その原因究明と対策は必須です。とはいえ、歴史の流れを元に戻すことはできず、その流れの中で、最善を尽くしかありません。そのためにも、歴史をできるだけ正確に認識する必要があり、そのことに少しでもお役に立てばとの思いで、事故から40年の節目に当たり、とりあえず、最近メールをいただいた一部の方にお送りさせてもらいます。
当初めざした神経生理学(広くは脳科学)と情報科学(広くはエレクトロニクス)の学際分野としての展開については、別途議論する必要があると思っていますが、今日はここまでにとどめます。
追悼文への反響
◇Iさんより鈴木へ
塚原先生のご追悼メール、ありがとうございました。私も40年前の塚原先生との会話などを思い出しておりました。工学部の金属工学科の4年の冬に、生物工学科3年への学士入学の相談に行った際、学科主任が塚原先生でした。就職が良い金属工学科から、当時は4年生が20人以上残留している生物工学科に入ってくることに心配いただきましたが、強い希望を伝えました。幸い教授会で認めていただけて嬉しかったです。塚原先生は、「君も面白い学生だね」と温かく笑っておられました。
博士課程の入試面接では、「君は魚の推進を研究しているが、魚には赤身と白身があるが、あれはどう違うのでしょうね」と不思議そうに質問されました。東大医学部卒の先生ならご存知のはずなのにと不思議に思いながら説明しましたら、まるで初耳のようにいたく感心されました。あれは優しい演技だったと思います。ゼミではかなり厳しい先生と聞いていましたが、個人的にお話するといつも謙虚で、上から目線の会話は無かったです。授業もきちっとした内容で、記憶に残る明快な説明で、できの悪い初学者にはありがたかったです。
個人的な思い出話で恐縮です。先生のごお冥福を心よりお祈りしています。
◇鈴木よりIさんへ
ご返事ありがとうございます。私の記憶する塚原さんとも重なり、懐かしく読ませてもらいました。
ありがとうございます。
赤身と白身の違い、今ではネットを調べるとAIが、色素蛋白質の量の違いとして答えてくれますが、塚原さんがご存知ないはずはなく、優しい演技だったのでしょうね。
◇Kさんより鈴木へ
追悼文と生物工学科誕生の貴重なお話をありがとうございます。当時私は医薬品業界に転職したばかりで、この事件が報道されるたびに学生時代と初めての転職の厳しさが思い出されます。
毎年この時期に日航機事故のことが報じられて思い出すのですが、塚原先生はご遺体が見つからなかったと当時聞いたことがあります。塚原先生には猫の脳に電極を刺して脳波を測定するという学部での実験授業のことが一番の思い出になっています。当時の最先端の研究に触れた思いです。今では脳の状態を測定する装置も方法論も当時とは格段の進歩ですから、事故に遭わなければ多くの素晴らしい業績をあげられたことでしょう。全ての犠牲者のご家族、関係者にこうした無念が付きまとう長い年月が経ちました。改めて塚原先生のご冥福、ご遺族の安寧を祈ります。
◇鈴木よりKさんへ
早速のご返事ありがとうございます。Kさんは、猫の脳に電極を刺し、脳細胞の活動を測定されたご経験があるのですね。電極を刺すという経験をされたとすると、それはとても貴重な経験の機会を塚原さんが学生さんに与えて居られたと、あらためて敬服しています。
生物工学という新しい分野での学生さんの就職先の開拓に苦労しましたが、私自身、医薬品業界や薬学に疎いことで、学生さんにもご苦労をおかけしたと思います。生物工学科では化学系の研究・教育が手薄であったことは否めません。今となれば、この分野はデータ―サイエンスや計測・分析技術が必須の分野でもあるので、そこまで視野を広げていれば、学生さんの就職先ももっと広がっていたと思います。とはいえ、それは結果論で、貴君を含め、多くの卒業生が、一人一人、新しい分野の開拓者として活躍されている姿を視ることが出来るのは嬉しいことです。
◇Kさんより鈴木へ
当時の実験で使った針電極は金属ではなくガラス管の中間部を電熱コイルで加熱、溶融しながらガラス管を機械で上下に引きちぎるものでした。もう昔のことで覚えていませんが鋭くとがった、しかし先は微小な開口部をもつ形状でした。管ですからその中に電解質液を注入して電極としたのだと思います。塚原先生は、動物の中で猫の脳は一番空間地図が分かっているのだと話されていたことを鮮明に覚えています(猫を見ると今でもその言葉をいつも思い出すぐらいです)。開口部の直径がどのくらいであったかは覚えていませんが、ガラス管から微細な電極に適した形状のものを作るのは容易ではなく、実験中に塚原先生も何回かやり直したことがありました。あれは微小電極ではなかったでしょうか。
◇鈴木よりKさんへ
まさにガラス管微小電極です。測定対象も神経細胞内電位の測定でしょうね。当時の最先端の技術を学生さんに経験させておられたのだと思います。やはり彼は一流でした。
以上