Limits to medicine Medical Nemesis: The expropriation of Health by Ivan Illichを読むヒント(3)疫病となった現代医療、医師の力を信じる幻想
医療に歯止めをかける:医療における因果応報
本エッセイは掲題のペーパーバック1995年版を翻訳した全文から要点を抜粋したものである。原題と目次の訳は以下のとおりである。(訳文の全部を開示していないのは版権の問題がクリアされていないためである)
第I部:治療現場における医療
疫病となった現代医療
イリッチは過去3世代の西洋社会における疾病構造が大きく変化したことを取り上げる。その変化とは急性期の病気は治るようになり、感染症も勢いを失いつつある。その反面高齢期における死亡が増えたという。その大きな変化は医療がもたらしものではないと指摘する。
■健康状態の変化は、一般的に疾病が減少したか、医療を受ける機会が増えたか、あるいは医療が良くなったお陰であるとの考えがある。大方の人は医療技術がなければ生きていけないと考える友人が、少なくとも一人はいるだろうと思っているが、実際にはこのような疾病構造の変化と、いわゆる医学・医療の進歩との間に直接的な関係があるという証拠はない。
そして増加した疾病負担は医師が作り出したものであるという。救命や健康に貢献してきたと自他ともに認める医学界に対する強烈な批判であり、一般市民に覚醒を促すメッセージである。
■それ(疾病負担の増加)は医師が作り出したもの、つまりiatrogenic(医原的)である。医学によるユートピアを追求して一世紀、今日の常識に反して医療は平均寿命に重要な役割を果たしていない。現在では病気の治療に過剰な臨床医療が行われるが、医療が個人や集団の健康に与えるダメージは非常に大きい。これらのことにははっきりとした十分な証拠があるが、世間に知られないように隠されているのだけのことである。
医師の力を信じる幻想
イリッチは産業化が始まった時代から1965年までの疾病パタンの変化を提示して、医学ではなく栄養の改善こそが社会の健康を改善してきたことを示す。
■産業化が始まった時期に流行した感染症は、医療がどのように評価されてきたかを物語っている。例えば、結核は2世代にわたってピークを維持した。1812年のニューヨークでの死亡率は1万人あたり700人以上と推定されていた。コッホが初めて結核菌を分離・培養した1882年には、早くも1万人あたり370人にまで減少した。1910年に最初の療養所が開設された時には180人にまで減少していたが、結核は依然として死亡率表の第2位を占めていた。
第二次大戦後の死亡率の低下においては抗生物質の寄与は限定的であり、疾病の原因、治療法が確立するまでに大きく低下していることを強調する。
■第二次大戦後、抗生物質が当たり前のように使用されるようになると、結核による死亡率は48人となり11位に転落している。コレラ、赤痢、腸チフスも同様に、医師の治療が普及していない時期にピークを迎え、減少していった。これらの病気は病因が解明され治療法が確立されるまでにその病原性、ひいては社会的な重要性を失っていた。15歳までの子どもの猩紅熱、ジフテリア、百日咳、麻疹による死亡率を合計すると、1860年から1965年までの死亡率低下の90%近くは、抗生物質の導入と予防接種の普及以前に起こっていたことがわかる。これは住居の改善や微生物の病原性の低下によるところもあるが、栄養状態の改善による人の抵抗力の向上が最も重要な要因である。
現代(原著が執筆された時代)においては、これらの急性疾患に代わる病気が流行してきたが、その主因は環境の変化であるという。今日、慢性病、生活習慣病あるいは非感染症疾患(Non-communicable disease)と呼ばれる疾病が優勢になってきた時代であった。
■これらの病気が後退した後に取って代わった現代の流行は、冠状動脈性心疾患、肺気腫、気管支炎、肥満、高血圧、癌(特に肺)、関節炎、糖尿病、そしていわゆる精神障害である。二つのことは確かである。医師の専門的な診療が過去の疾病の死亡率や病的状態をなくしたことの証明にはならないし、平均余命 が延びたために新しい病気に苦しむことになったのだとする根拠もない。一世紀以上にわたる疾病の傾向を分析すれば、どの人口集団であっても健康状態の大きな決定要因は環境 であることが示されている。
■医学地理学、疾病史、医療人類学、病気に対する考え方の社会史学によって、食物、水、空気というものが、社会政治的な平等の水準や人口の安定を可能とする文化的メカニズムと連動していること、また健康な成人がどのように感じるか、何歳で死ぬかを決定する上で決定的な役割を持っていることが明らかとなった。
ここで留意しておかなければならないのは、一個の生命を救う治療ではなく、人口学的に有効な変化をもたらしたかどうか、というイリッチの視点である。
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原書(1995年版第I部 疫病となった現代医療、医師の力を信じる幻想)を読むための語彙の注釈
本来、原著もしくは原著の訳に対して注釈をつけるべきであるが、ここでは読者が知的好奇心から原著を手に取って読むことを期待している。私が1995年版を訳した際に必要と思われた語彙の注釈をアップした。この語彙を眺めるだけでも、イリッチの生きた時代背景やイリッチの思想の一端が読者の興味を惹くことを期待している。
1. オムランの疫学転換理論によると、西欧社会は次の段階を経てきた。疫病蔓延と飢饉の時代(平均寿命20~40年)、慢性的疫病蔓延の終息期(平均寿命30~50年)、変性疾患と人為的疾病の時代、変性疾患遅延の時代である。特筆すべき変化は、ハンセン病の減少と結核の増加が顕著となり、都市化の進行が結核の増加をもたらした。このように、西欧社会の疾病構造は感染症中心から慢性疾患中心へと劇的に変化した。
2. 18世紀以降、ワクチンの開発や抗生物質の発見により、感染症の予防・治療方法が飛躍的に進歩した。1980(昭和55)年には世界保健機関による天然痘の根絶宣言という金字塔が打ち立てられ、感染症はもはや脅威ではないと思われた。ところが結核、マラリアなど古くからある感染症の中には、近い将来克服されると考えられていたものの再び流行する傾向が出ている感染症(再興感染症)が出現した。これらの感染症が再び脅威となりつつある。
3. 梅毒は日本における典型的な再興感染症である。かつては抗生物質の普及により患者数が大幅に減少し、10年ほど前までは日本でほとんど見られなくなった。しかし、2010年頃から報告数が増加し始め、現在では大きな流行となっている。
4. 日本における老齢期の主な疾患:認知症、脳血管疾患、心疾患、悪性新生物(がん)、骨粗しょう症、関節疾患、糖尿病、高血圧、肺炎・誤嚥性肺炎、慢性腎不全、パーキンソン病や運動障害関連疾患、帯状疱疹。死因ランキング(高齢者)は1位悪性新生物(がん)、2位心疾患、3位脳血管疾患、4位肺炎、5位老衰。
5. G7諸国の15~34歳の若者の上位3位までの死因は日本では自殺、事故、がん。アメリカは事故、自殺、殺人。フランスは事故、自殺、その他。ドイツは事故、自殺、がん。カナダは事故、自殺、がん。イギリスは事故、自殺、がん、イタリアは事故、がん、自殺となっている。
6. 疾病負担は、死亡と障害を含む包括的な健康指標。これは死亡率だけでなく、疾病や障害が人々の生活の質や社会経済的影響も考慮に入れた概念。1.損失生存年数は、疾病障害により健康寿命を全うできなかった年数を表す指標。2.標準早死損失年は、例えば悪性新生物、不慮の事故、自殺、心疾患、脳血管疾患によって何歳で亡くなったかの順位を表す。この順序は、特に働き盛りの中年期や青年期における健康負担を反映する。 世界的な疾病負担状況は人口の高齢化、地域、疾病構造の変化で過去数十年に大きく変化した。
7. 平均寿命とは0歳の時点での平均余命を指し、生まれたばかりの子どもが生存するとされる平均年数を示す。この指標は、国や地域の医療・衛生水準を示すものとして重要である。生命表に基づいて計算され、現在の死亡状況が将来にわたって続くとする仮定に基づく。
8. ペラグラは、ナイアシン(ビタミンB3)の欠乏による代謝内分泌疾患。皮膚炎、消化器症状、精神・神経症状を主な特徴とし、「3D」(皮膚炎dermatitis、下痢diarrhea、痴呆dementia)と呼ばれる3つの主要症状を引き起こす。
9. 平均余命とは、ある年齢の人々がその後何年生きられるかという期待値をいう。2023年の日本人の平均寿命(0歳時の平均余命)は、男性が81.09歳、女性が87.14歳となっている。
10. 世界保健機関は健康の決定要因として、収入と社会的地位、 教育、物理的環境、安全な住居、雇用と労働条件、社会的 ネットワーク、社会の習慣や電灯、文化、遺伝、個人の行動 (食事、運動、喫煙、飲酒、ストレスなど)、医療サービス、性別 を挙げている。これらの多くは外的環境条件であるが、イリッチの主張する健康の営みという本人の自発性と節度は含まれていない。
11. 超加工食品は高カロリーで、砂糖、飽和脂肪、塩分が多く含まれる一方、ビタミン、ミネラル、食物繊維などの必要な栄養素が不足していることが多いが、子供たちが好んで食べる食品でもある。便利な加工食品の氾濫で伝統的で健康的な食生活が失われており、子供たちの未来に大きな影響が懸念される。
12. 出産後の産婦の発熱は産褥熱と言われ、妊婦が出産後に死ぬ一番の原因であった。19世紀の欧米では流行病のようにすらなった。1879年にパスツールが発見したストレプトコッカス・ピオゲネスが原因菌で、この感染は医師の手洗い徹底により激減した。1930年代以降は抗生物質の発明により先進国では大きな問題ではなくなったが、貧困国では母子健康にとって大きな脅威であり続けている。参考:人類を襲った30の病魔、医学書院。
13. 医療器具(機器)の定義は国によって異なる。日本では薬機法(旧薬事法)第2条第4項に基づき、人または動物に使用されるもので、疾病の診断、治療、予防、または身体の構造や機能に影響を与えるもの、および機械器具等で、政令で定めるものとなっている。例として、MRIやペースメーカーなど。一方で、健康器具や運動器具は医療機器には該当しない。
14. 介入(intervention)は、状況を改善し、あるいは悪化を防ぐために状況に介入する行為。特に医療上の問題を改善するためにとられる行動である。ある国家が別の国家に介入したり干渉したりすることも含まれる。
15. 疾病負荷(disease burden)は特定の健康問題の影響を評価する指標で、死亡率や疾病率だけでなく経済的コストも考慮する。
16. 日本では都市部に医師が集中し、地方の慢性的な医師不足は複合的理由による。都市部は生活環境や教育、交通の利便性が高く医師にとっても働きやすい。2004年に導入された新臨床研修制度により、大学医局から地方への医師派遣が減少した。過疎地域では患者数自体が少なく、医療施設の運営が難しくなるケースがある。都市部には高度医療を提供する施設が多く、キャリア形成に有利。地域特有の課題地方では文化や人間関係への適応が難しい、などである。