日本語はあいまいか?(3)      夜中から学ぶもの

 2回目のエッセイで日本語に顕著な中動態ということと、それは日本語が英語に見られる主語(行為者)より、テーマ、関心、状況、心象などを優先して提示する言語学的性格があることを書いた。このような性格は実際の場面でどのようなことを生じさせるのか、を書いてみることにする。

 まず、テーマや、関心事という提示部が最初に長々と来るのであるから、結論はおのずから最後に来ざるを得ない。日本語は最後まで聞かないと分からない、と揶揄される理由である。提示部がいたずらに長いと、学習者は提示部と一番大事なところと結論がどのように結び付くのか分かりにくくなる。日本語話者native Japaneseでも文章の頭としっぽがねじれるということは頻繁に起こる。新聞などでも例外ではない。

 日本人が英語を学習するときに、憧れるのは流暢な話し方であり、話し言葉でも書き言葉でも、長文を理解できる力、などであろう。おそらく日本語を学ぶ外国人も同じかもしれない。朴訥と話し、唸りながら言いながら長文を読んでいくなどは、道半ばと思い込むのである(英語を学ぶ理由は見栄である、とは言い過ぎか)。

 ところが明瞭なコミュニケーションは短い文を積み上げて、あるいは短い文を繋ぎ合わせて流れを作ることで可能となる、という。したがって、学習者はまず短い文章(例文)を大量に覚え(自分の中にコーパスを持つ、作るのである)、次いでそれらを使ってあるテーマについて物語を作っていく、というプロセスを踏むのである。短い例文を覚えたら、物語を作るということまでトライするのが望ましい。

 しかし、最初から完結した文章を目指すのは危険である。まずは提示部を二つ三つくらいの短い文章の組み合わせで作るのである。

・昨日母が買い物に出かけた。

・リーベルで友達に会った。

・長話をして買い物を忘れた。

という三つの短文で、提示部を作る。たとえば第一の提示部:「昨日、母がリーベルに買い物に行った」。第二の提示部「そこで友達に会った」。第三の提示部:「その友達と長話をした」とする。これをつなげると「昨日、母がリーベルに買い物に行ったら、友達に会った。その友達と長話をした(ので)」という提示部ができる。

 この提示部に自分の気持ち、やその状況が引き起こした事実など結論の短文を繋げる。例えば、母はいったいなにしに行ったのだろう?とか次の約束に間に合わなくなったとか、そこはさまざまである。

昨日、母がリーベルに買い物に行ったら、友達に会って長話をしたので、次の約束に間に合わなくなった。(困ったことになったという気持ちがにじむ文章になる)

昨日、母がリーベルに買い物に行ったら、友達に会って長話をしたので、買い物を忘れた。(呆れたという気持ちがにじむ文章になる)

「 ~ので」は順接、「~のに」は逆接という教え方より、提示部から自然に期待できる結論を導く、あるいは提示部から期待できるものとは異なる結論を導く、と教えるのが生徒さんも理解、納得しやすい。

 これは一例であるが、まずは提示部を作る練習がよいのではないか。この提示部であると結論は「うれしかった」とはならないだろう。これが文脈というか物語のとてもシンプルな形である。提示部の文脈は結論を事実としてでも気持ちや感情としても自然に導く力がある。「~ので」という接続語が結論の理由を暗示させる、という機能も実感できるであろう。日本人が他言語に翻訳するときに、長文を最初から訳そうとせず、分解してから繋いでいくという訓練が効果的というのが実感である。その時に日本人なら日本語の、外国人ならば彼らの母国語の原文構造にとらわれ過ぎることのないようにするのがよい。

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