偏見とアニミズム(1) 夜中から学ぶもの
「偏見」と大向こうを切って言うつもりはないのだが、私の人生でいくつか殊に欧米人から言われていたことがある(個人的に言われたのではなく、社会的一般的了解として受け止められていた)。いわく、刺身なんて食べる気がしない、日本人は英語の発音が下手だ(特にRとLの区別)、日本人には宗教がない、などである。
ここでは日本人は宗教を持たない、という言いがかり?について書いてみようと思う。
宗教は言語と同じように世界で数多くあるが、いわゆる高等宗教からカルト集団の宗教まで幅が広い。宗教はなぜ生まれたかという深淵な考察はおいておくとして、宗教は社会や個人にとって何の働きをしているのかという問いがある。宗教の教えには「信心」とか「信仰」がついて回って、社会や個人の規範になってきた。
さて日本人の典型的な人生の節目はこうである:生まれる前から、妊婦は犬帯をして神社でお祓いを受け、子供の幼少期は神社で七五三の儀式を通過し、受験のときは神社のおみくじを引き絵馬を買う。しかし結婚式はキリスト教会で厳かに牧師(神父)の祝福を受ける。クリスマスは教会に行かずにデパートへ繰り出し、正月には有名な神社に殺到する。この世からおさらばするときはおおむね仏式の葬儀が執り行われる。このように或るときは仏教、ある時はキリスト教、ある時は無宗教というようなライフスタイルを見るにつけ、日本人には定見がない、信仰がない、規範がないのだと欧米人が考えるのは当然かもしれない。
日本は古来、神社があり、神道という宗教と物語(例えば古事記)があった。神道はコーランや仏典、聖書など体系的な哲学、神学の教えを持つというよりは、厳かな儀式の体系である。その儀式は何を祭るかといえば、農水産の恵みであり、自然に対する感謝と畏敬の念であろう。この畏敬の念こそが日本社会に規範を与えてきた。日本人は自然のものすべてに「神(カミ)」が宿り、畏敬の念を持つべきとされたのである。このような精神性をアニミズムという。
日本のアニミズムは現代社会でもいたるところに息づいているのだが、それと気づきにくくなっている。道端にたたずむお地蔵さんに手を合わせるのも、食事の前に、いただきます、終ればご馳走さま、と感謝の言葉も、車に安全のお札をぶら下げて安心感をえるのも、もったいないと捨てがたく愛着を示すのも全てものに神が宿るという素朴なアニミズムの形である(ここでのカミは英語のGodでは決してない)。こうした心理、精神性は外国文化にもあるのだろうが、日本のアニミズムは日本に固有の表現形式、形態を取り、外国人が日本に溶け込むうえで時に気が付かないかもしれない。もちろん日本人が外国文化のアニミズムに気が付かないことも当然である。
もともとアニミズムという言葉自体が外国から輸入されたものであるから、日本と形や精神性が異なるのは不思議ではない。日本のアニミズムを日本語に訳すとどうなるのだろうか?私の語感としては「万物に宿る祖霊崇拝」であろう。日本の土着の民間信心として「ご先祖様になる」という表現がある。「死せるものは生者を見守る」という関係性が日本のアニミズムにある。
翻って海外の諸国にはアニミズムが息づいているのだろうか?答えはもちろんyesである。私たちの夜間中学は多国籍グループそのものである。私達が知らないだけで、多様なアニミズムが教室の中に充満し、往来しているのだ。日本に長く生活し、働きたいという外国人には日本のアニミズムが、日常生活、伝統の基底にあり、さらには政治的イデオロギーにも入り込んでいることを知ってもらうべきだと思うが、私たちも彼ら彼女たちの母国文化のアニミズムがどのようなものであるか、相互に学ぶ必要があるだろう。それなくしては、私たちは偏見というフィルターを通してしか生徒さんを見ないし、生徒さんも日本を働いてお金を稼ぐ場所としか見ていないかもしれない。日本の文化がハイコンテクストといわれる大きな理由の一つが、日本人すら十分に気が付いていない日本のアニミズムである。