日本語はあいまいか?(1) 夜中から学ぶもの
夜間中学で教える側のスタッフとしてボランティア活動を初めて8年になる。ある日のことベトナムから働きに来て、夜間中学に通っている生徒さんに、「日本語はあいまいで分かりにくい」とこぼされたことがあった。そのことがずっと頭の片隅に残っていて、我ながらどうしてなのか、と考えてきた。このエッセイでは 日本語はあいまいな言語か、という問いで書いてみたい。
日本語があいまいだ、と言われることが多いのにはおそらく複数の理由があると思っているが、その最も有力な説は日本語には主語がない、というものである。しばしば持ち出される反論?は敬語というシステムは、誰が主語(主体)なのかを分からせるので、主語の明示は必須でなくなる、という言語の経済学を持ち出すことである。あるいはどれが主語なのか分からない、という議論もある。例えば、「ゾウは鼻が長い」という短い文章で、主語は「ゾウ」なのか、「鼻」なのか、という疑問である。
この主語がない、ということはどういうことかを改めて考えるに、そもそも「主語」という概念は近代、ことに英語の文法を日本語に当てはめてきたことによる。ある意味強制的なやり方で日本語を整理し直したと言える。英語には能動態と受動態の二つがある。だから日本語の構造も二つの「態」で整理して学校で教えてきた。そのことが日本語の構造を英語構造で解釈できると錯覚させてきたのである。しかし古来日本には「中動態」という第三の「態」があった。その伝統は現代においても至る所にあるのだが、その中動態も能動態と受動態のどちらかで割り切ろうとしてきたようである。
日本の中動態はこのようなものである。
「~を思う」「~と思う」という日本語を日本人が英語にするときには大方I think~とはじめる。しかし、古来日本語を和歌に見ると、ほとんどと言ってよいほど状況や心象を取り上げて「思ほゆ(思う)」と詠っている。取り上げられた状況や心象は、作者にとってのテーマである。そのテーマは誰かが作為して生じたものではなく、作者とは無関係に生じている。そのテーマについて作者の心の中に自発的、自然発生的に浮かんで来るのが「思う」「想う」である。
日本語の古層である和歌を百人一首からいくつか拾ってみよう。
・立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰りこむ(中納言行平)
・吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ(文屋康秀)
わずか二句の紹介であるが、31文字の内25文字以上が状況設定であることが分かる。
つまり、日本語は事の成り行きや状況、心象をテーマとして心に浮かぶことを「思う」「想う」というのであろう。これに対してthinkというのは極めて論理性の強い単語である。Cobuild英英辞典には最初の例文として以下のように説明されている。
・If you think that something is the case, you have the opinion that it is the case.
・(訳)もしあなたが何かが事実だと考えるなら、あなたはそれが事実だという意見を持っていることになる。
この例文ではthinkはopinion「意見」という論理的思考性の強い単語とペアで登場しており、典型的な哲学や、論理学の命題のようである(デカルトの「われ思う、ゆえに我あり」に類している。→トートロジー「同義語反復」)。
このように英語のthinkは日本語の「思う」でも「想う」でもない。あえて言えば、「論理的に考える、判断する、分析する、結論する、考察する」などであろう。しかし現代の一般的日本人はまだまだシャイなところがあり、断定を避けようとする強い傾向がある。そのために言い切ってよい時でさえ「思う」「思われる」を乱発するのである(excuseの伏線を張るという気持ちもある)。このギャップは日本人がどのような態度で物事を考えているのか、という疑問を外国人特に欧米人に抱かせ、ひいては日本語があいまいであるという印象を持たせることにつながるだろうと考えている。
・日本語は主語優勢の言語ではなく、主題(テーマ、関心事)優勢の言語である。
外国人(特に英語話者)に日本語を教える時は「何が主題になっているか」ということを徹底することが大事である(それが日本語の作法(文法)であるから)。英語文法で定義される主語が表に現れていないからと言って、日本語があいまいで劣等であるということにはならない。
日本語ほどには中動態は顕著でないが、他言語にも類似例があることを次の機会に取り上げてみたい。