B-29戦略爆撃機と日本空襲
親戚のような間柄の人で、姫路市で空襲の語り部を35年以上も続けている方がおられる。黒田さんという。今年96歳であるが今なお語り部として現役である。親戚のような間柄、というのは私が生まれる時に取り上げてくれた産婆さんが黒田さんの母親であったからである。黒田さんは姫路空襲の体験を小中高生に年に10回程語っている。これまでに350回近くになるというので、年月で言えば35年以上であろう。黒田さんが姫路空襲の語り部になった原点は、空襲で家を焼かれ、家族が焼け死に、本人も逃げ惑って田んぼの水路に飛び込み、目の前40~50cmぐらいのところに焼夷弾が突き刺さったが、不発で九死に一生を得たという体験である。黒田さんの自宅でその現物を見せてもらったが、なるほど焼夷弾とはこういうものかと実感した。それは拍子抜けするほど小さいものであった。私たちは映像でB-29から投下される巨大な親爆弾しか見ていないからである。親爆弾から無数に散開する焼夷弾の実態を体験していない。
焼夷弾とは空爆で日本の木造家屋から成る都市を継続的に焼き尽くし、日本の工業生産を窒息させて降伏に追い込むという戦略に基づいて考案された爆弾である[1]。焼夷弾1発(M69)は6角形で直径8cm、長さ50cmで内部には約1.3kgのナパーム焼夷剤が充填された。焼夷弾は単発では使われず38発を前後2段に集束し、親爆弾のクラスター弾(E46)に収められた。このクラスター弾は投下されると高度600~700mぐらいで開裂し、M69が一斉に地上へ散開し、広い範囲に亘って火災を起こさせる。私たちは爆弾というものは爆発、爆裂して目標を破壊するものと思い込んでいるが、焼夷弾は瞬時の破壊ではなく、焼き尽くすことで破壊をもたらす。
この空爆を担ったのがB-29戦略爆撃機である。B-29一機には40発のクラスター弾(E46)が搭載された。すなわち1520発の焼夷弾である。戦略という形容語が付されていることは、それまでの航空機の主な任務が敵戦闘機や爆撃機を攻撃することを想定していたことと全くかけ離れた発想で開発されたことを示している。端的に言えば、護衛戦闘機を伴わずに爆撃が可能な高高度、厚い防御、大積載量、長距離飛行が可能になった。いわゆる十分なアウトレンジ戦法が可能になった。それまでの爆撃機は爆弾を抱えるために鈍重である上に、防御・対空兵装は十分でなく護衛戦闘機なしには作戦参加が困難であった(日本機では特に主力とされた九七式重爆撃機)。B-29はそれまでの爆撃機の常識を覆すものであった。
1945年8月15日までのB-29による空爆によって被った被害は甚大であった。全国200以上の都市が被災し、被災人口は970万人に及び、全国の空襲死者総数は調査団体によって異なるが、米国戦略爆撃調査団は252,769人、経済安定本部[2]は299,485人と報告している。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール:およそ東京23区を丸ごと燃やし尽くしたことに相当する)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した(これらの数字には広島、長崎の被害は含まれていない[3]。しかし二つの原爆はB-29によって投下された)。これは戦争史上最大規模の無差別爆撃であり、同時に殺戮であった。
ここで米軍が対日戦争においていかに空爆を戦略的に準備してきたことを俯瞰してみたい。
■B29戦略爆撃の開発と実戦投入
B29の開発は米軍の陸軍航空部隊が1940年1月29日に設計競争を公募した。その思想はB17爆撃機などの発展型ではなく、最初から長距離大型爆撃の仕様であった。1940年1月頃は、日米の公式な通商関係が完全に断絶し、アメリカが本格的な経済制裁に乗り出すと同時に、日本がアジア太平洋地域での軍事膨張路線を加速させ始めた、戦争へ向かう岐路の時期であった。ちょうどこの同月に、アメリカがB-29開発を公式に発注したことは、米国の対日戦争準備もまた本格化していたことを象徴している。B29の実戦配備は1944年4月である。日米開戦の戦端が開かれたのは1941年12月8日の真珠湾攻撃であるから、開戦から約2年半をかけて実戦配備にこぎつけている。この間米軍は周到な準備を進めてきた。
■運用体制の構築
B29の運用にはパイロットを含む搭乗員の他に、機体担当グランドルー、飛行隊サービス要員、整備支援グループを含め一機当たり60~70名を必要とした。その訓練と準備の周到さは今日でも目を見張るものがある。B-29の一機を飛ばすために必要だった21ヶ月の乗員訓練、112日間の地上要員基礎訓練、複数の高度な専門課程、さらに統合編隊訓練といった圧倒的な準備期間は、これが単なる爆撃機ではなく戦争遂行そのものを変える戦略兵器であったことを証明している。同時に、戦中に3,970機という途方もない規模で量産されたこと自体が、アメリカの工業動員力と日本に対する全力での絶滅戦争準備を象徴するものなのである。
■焼夷弾の改良
焼夷弾は1941年10月からスタンダード石油が対日戦争を念頭に開始した。日本の木造家屋戸路地を正確に再現した日本村を構築し、落下軌道、発火範囲、燃え方、消火に要する時間など約半年近くかけて実験を繰り返した。その結果、当初焼夷剤として使われていたテルミットまたはマグネシウムは初期消火が比較的容易であると判明し、ナフサ(軽質油)にナパーム油から採取した増粘剤を加えたナパーム弾としたのである。最大の特徴はその初期消火の困難性であった。ナパーム弾の焼夷剤は人体や木材に付着すると水をかけても消火が困難であった。言わずもがなであるが、初期消火が困難であることは、その後の延焼拡大の確率を高めることになる。焼夷弾は垂直に落下して家屋の屋根を突き破って着床すると、時限信管が起動して横倒しになり、信管の反対側から最大30mの高さまで火の玉が吹き上げるものであった。
■対日空爆のリハーサルと神戸大空襲
B-29による最初の対日空爆は1945年1月3日に名古屋市に対して行われた。これは本格的なものではなく、リハーサルというべきものであった。この結果、焼夷弾はテルミットやマグネシウム焼夷剤からナパーム焼夷剤に変更となり、1カ月後の2月4日、神戸の大空襲が敢行された。B29は70機編隊で2時間に亘りM64による空爆を行い、林田区(現長田区)、兵庫区、湊東区(現兵庫区・中央区)は甚大な被害を受けた。
焼夷弾の凄さ、恐ろしさを姫路の二度の空襲で被災した黒田さんが語る。
水田に逃げ込んで焼夷弾が目の前に突き刺さったが発火せず、九死に一生を得た黒田さんが「助かった」と思って北の方を見たら火の海であった。西も東もであった。そして炎はしだいに南に移動していく。それで田んぼから見ていたら自宅の隣が燃え出した。
「ほいで、僕はいっぺん訓練受けたことのある…バケツリレーね、バケツリレーをしてみようかと思うたから、家に飛んで帰った。たどり着いたと思うたら、まず母が、次いで祖父もどっかから戻って来た。それで3人でですね、井戸水ですね、水道はない、井戸からポンプで水を汲んで、バケツにね、バケツリレーですね。母屋が燃えかけて天井が燃えよるんですわ。母屋の天井に向かってバケツの水をぶっかけるんですけどね、届かないんですわ。ワーっと放り上げても水がこっちに戻って来るんです。届かないんです。そのうち部屋全体の天井が燃え出した。(中略)どの家にも5~6人は入れる防空壕が掘ってあったが、そんなもんは家が焼けたらやばいと思いますね。結局、家は台所と2畳分だけが残って、そこに父と母が寝泊まりをするようになった。私は母の郷里へ疎開したんです。
焼け出された町の人びとは、焼跡に焼け残った木材で建てたバラック小屋、あるいは防空壕の中で暮らしてました。街の道には牛や馬が死んで倒れてるんです。めちゃくちゃ臭いんです。鼻をつまんで駆け足で通り過ぎましたが、近所の人は死んだ牛や馬の肉を包丁で削って食べたという話も聞きました。
二度の空襲で514名がなくなったということになっとんですが、これには市役所に届けた人数で、グラマンによって殺された20名は含まれてませんからね。それに、届けでなかった韓国人労働者、川西航空機[4]で100人以上の韓国人労働者が働いておったから、何人かはなくなっとるらしいですね…」
戦線に登場してから終戦までB-29は戦略的空爆の主役であった。爆撃回数は2040回に及び、投下された焼夷弾は2040万発、日本側の人的被害は46万人に達したとされる(原爆による被害を除く)。太平洋戦争で犠牲者は310万人を数える。内訳は軍人・軍属230万人、民間人80万人とされる(沖縄戦の犠牲者を含む)。B-29による都市空爆は民間犠牲者のおよそ6割近くになる、この犠牲が対米戦争3年6カ月の後期の5カ月間に発生した。B-29は当初の目論見どおりに日本の軍事、経済、人的資源の疲弊と消耗を加速させ、日本の降伏に寄与した。米国の強大な国力との差と惨禍ばかりが強調されるが、周到な対日戦略の下で入念な準備をしていた米国の実相と日本の対比を知るべきであろう。B-29の仕様は1943年に原爆を爆装できるものに変更された。殺戮戦争の本質は、壊滅させる冷徹な計算以外の何ものでもない。
B-29 戦略爆撃機(スーパーフォートレス):の主な仕様
スーパーフォートレスというコードネームはフォートレス(要塞)と呼ばれていたB-17をB-29が凌駕しために付けられた(超・空の要塞)。なおBは米軍の爆撃機(Bomber)を表す(ボーイング社のBではない)。
基本寸法
全幅:43.05 m、全長:31.18 m、全高:8.46 m、自重:33,793 kg
性能:最大速度:575~640 km/h、巡航速度:約467 km/h、航続距離:9,000 km(実用は5,230~9,000km)、上昇限度:9,710 m
エンジン:ライト R-3350-23 空冷星型 2,200馬力 ×4基
兵装・装備:搭乗員:11名(パイロット、副操縦士、航法士、爆撃手、機銃手、通信士など)
武装:12.7mm M2機関銃連装砲塔 ×5(携行弾数 各1,000発)、20mm機関砲 ×1
全砲塔リモート操作式FCS(射撃管制装置)、爆弾搭載量:最大9,100kg(20,000ポンド)
特殊爆装:原子爆弾投下可能(広島・長崎への投下)。最初の設計仕様にはこの特殊爆装は含まれておらず、1943年に原爆開発のマンハッタン計画が大詰めに近づいたことから組み込まれた。
主な特徴:全備加圧キャビン(高高度でも酸素マスク不要)、ターボチャージャー装備で高高度性能向上、遠隔操作式砲塔(FCS)による射撃精度アップ、巨大な爆弾搭載量・航続距離が太平洋横断&都市爆撃(渡洋爆撃)が可能。
生産数:総生産数:3,970機 B-29は、同時代の爆撃機と比較して圧倒的な能力を持ち、戦略爆撃の主力として世界最高の性能を誇った航空機と言える。
なお、B-29による日本空爆の映像は検索すれば容易に観ることができる。
完
[1] 「焼夷」とは、ものを燃やす・焼き払う、あるいは火にするという意味である。この語は、火を放ったり、焼却する作用(=焼夷作用)を持つものに使われ、焼夷弾は“対象物に着火し、焼き払うことを目的とする爆弾”という意味になる。英語では「焼夷弾」は“incendiary bomb”または“fire bomb”。「incendiary」は「発火力のある」や「燃えやすい」、「放火用の」という意味を持つ形容詞・名詞。
[2] 経済安定本部は戦後の日本経済の復興を図る目的で設置された行政機関。初代総裁は吉田茂内閣総理大臣。
[3] 原爆による人的被害は広島(1945年8月6日):死者約70,000~80,000人(終戦までに約140,000人)、長崎(1945年8月9日):死者約40,000人(終戦までに約70,000人)。
[4] 川西航空機は現在の新明和の前身であり、水上飛行艇に特化した航空機製造会社であった。姫路市には同社の姫路製作所があり、軍事目標になった。