Limits to medicine Medical Nemesis: The expropriation of Health by Ivan Illichを読むヒント(1) Preface to the 1995 edition

 本エッセイは掲題のペーパーバック1995年版を翻訳した全文から要点を抜粋したものである。原題と目次の訳は以下のとおりである。(訳文の全部を開示していないのは版権の問題がクリアされていないためである)

医療に歯止めをかける

医療における因果応報

 

目次

1995年版への序文:病原性、免疫システム、公衆衛生の質

謝辞

著者のメモ書き

 

はじめに

第I部:治療現場における医原病

疫病となった現代医療

医師の力を信じる幻想

医療のネメシスという報い

無益な医療

医師が引き起す起こす健康被害

無防備な患者

第II 部:社会に現れる医原病

政治による医原病の拡散

社会の中の医原病

独占体制に向かう医療システム

倫理・道徳から中立な治療?

医療サービス予算からみた医療化

あふれかえる医薬品

侵略的性格を帯びる診断

予防医学のもたらす社会的烙印

臨終を迎える作法

増え続ける患者の行き先

忌まわしくも驚嘆すべき医療技術

 

第III部:苦悩と死の文化

はじめに

痛みと苦悩の傍観者

疾病概念の誕生と変遷

変化してきた死のイメージ:商品化される死

死者の敬虔な踊り

死者の不気味な踊り

勃興する市民層における死

治療現場における死

自然死を求める労働組合

集中治療と死

 

第IV部:健康と政治

反動化する産業体制

政治と政策

薬に依存する消費者

不平等と公平性

マフィア的な医療体制

命を科学原理にはめ込む医療体制

人工子宮をめざす工学

健康の営みの回復

産業化時代のNemesis

神話の継承から倫理の確立へ

健康を志向する権利

健康の営みという美徳

付録:イリッチの出版物紹介

 

1995年版への序文:病原性、免疫システム、公衆衛生の質

1995年版には1972年の初版には無かったPreface(序文)が付されている。この序文は著者が回顧する通り非常に大きな意味を持つもので、再版に当たって状況に合わせて単に書き直したというものではなく、初版を書いた当時の著者の意図、後悔とその理由が率直に語られているからである。初版を書き直すのではなく、初版の内容は変えずに初版で至らなかった思想、思索の過ちを認めて公表したのである。著者は次のように述べる(以下、訳は寝庵出樽人による)。

      ■今日、生命倫理はシステム論と手を結んだために、一人の人間を「一個の生命」であるとしたところで、その人間の全てを管理しようとすること(社会的趨勢)に抗うことはできません。しかし私は今になって、私の考えを損なう大きな欠点があることに気がつきました。当時、私は健康とは「自律的な対応力の強さ」だと考えていました。私は(人間という)システムを分析的に考察することが、ものの見方や概念に道徳的な悪影響を及ぼすということに気がついていなかったのです。サイバネティクスの手法で自分自身に言及し、健康というものを解釈すれば、苦しむ人が身体・肉体を一層疎いものとする世界観の素地を知らず知らずのうちに作っていたのです。機能、フィードバック、調節といった概念で幸せを表現するとき、私は身体と魂がどのように変質していくかという体験を無視していました。

      ■…私は間違っていました。人間は自己構築的なシステムでありながら、他者による管理を必要とする存在と捉えることは、生活し、経験してきた身体の記憶を消し去ることになります。自分自身の実体性が失われるにも関わらず、己だけは苦悩と死に赴く技芸の伝統にしたがって生きていると欺くのです。

 著者は人間がどのように生きるか、ということについて「倫理的に生きるか、それとも認識論的に生きるか」という問いを私たちに投げかけている。

      ■この本(原著のこと)は進歩、快適、ケア、保険によって成り立つ文化の中にあっても、生活する技術、楽しみと苦しみの技芸は真実のものであり、苦痛を軽減し、回復し、最終的には安寧のうちに世を去ることができるようにする試みでありました。(中略)20世紀後半は悩み喜ぶために生まれた人間をシステムという概念に実体性を与えて理解し、自己防衛(免疫システム)の情報ループであると考えたために、生気を奪う黒魔術というべき医療技術がはびこる結果になったのです。

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原書(1995年版序文)を読むための語彙の注釈

 本来、原著もしくは原著の訳に対して注釈をつけるべきであるが、ここでは訳出したものに訳者がつけた解説を載せた。したがって抜粋した訳文にはない項目が多く含まれている。しかしこの語彙を眺めるだけでも、イリッチの生きた時代背景やイリッチの思想の一端が伺われ、読者の興味を惹くことを期待している。

1.     今日ではartは芸術と訳されるが原義は古代フランス語のartであり、源はラテン語のartem(技「わざ」、術「すべ」、芸「げい」)である。歴史的に、数学、医学、文法、論理学、修辞学、幾何学、音楽、天文学、あるいは歴史、詩、喜悲劇、音楽、舞踊、天文、絵画、デッサン、彫刻などきわめて広い範囲の技芸を指す言葉であった。

2.     初版の原文テキストは金子嗣郎(かねこつぐお)氏によって訳され、1979年に(株)晶文社から「脱病院化社会」と題して第一版が出版された。氏は東京大学医学部卒の精神医学、医学史専攻、都立松沢病院精神科部長、東大医学部講師(肩書は当時)。

3.     イリッチが著した現代批評の代表的エッセイで邦訳されているものはLimits to Medicine(脱病院化社会、晶文社)、Deschooling Society(脱学校の社会、創元社)- 教育制度への批判、Tools for Conviviality(コンヴィヴィアリティ(自立共生)のための道具、ちくま書房)- 産業社会と技術への批判、Disabling Professions(専門家時代の幻想、新評論社)-専門職支配への批判とである。イリッチは「専門家が問題を持ち、専門家が解決策を持ち、科学者が「能力」や「ニーズ」といった測定不能なものを測定する時代」として現代を特徴づけている。

4.     1970年代の欧米の医療システムは「病院の世紀」と呼ばれる20世紀の医療供給体制であった。この時期の欧米の医療は高度な治療医学を中心としつつも、同時にその限界や問題点が認識され始めた過渡期にあった。

5.     イリッチは抽象的な倫理原則ではなく、苦悩の理解によってより豊かな医療倫理を構築できるという信念である。生命科学(Bioscience)という言葉は1960年代の終わりころから出現し、生命倫理(Bioethics)という言葉は1970年頃から急速に使われ始めた。

6.     サイバネティックスは、通信工学と制御工学を融合し、生理学、機械工学、システム工学、さらには人間、機械の相互関係(コミュニケーション)を統一的に扱うことを意図して作られた学問。1948年にノーバート・ウイナーが提唱した。

7.     現代社会は自己や苦しみ・死に対して人間をシステム的に捉えたアプローチを採用していながら、同時に身体的な伝統的慣習との連続性も主張している、と批判している。すなわち実体死を技術的/医学的な管理すべきプロセスと見ることと、深遠な実存的かつ身体的な経験と見ることとの緊張関係である。

8.     科学や医療の進歩によって人々の判断や行動の主体性が失われていることをイリッチは問題視している。医療の分類とは後の「侵略的性格を帯びる診断」断章で論じられる疾病(名)とその概念などを指す。

9.     還元主義とは複雑な現象やシステムを、より基本的な要素や単純な構成要素の集まりとして説明しようとする立場や考え方。「複雑なものは、より単純なものの組み合わせや相互作用によって成り立っている」と考える。全体の性質や振る舞いも、その構成要素を理解すれば説明できるとするアプローチである。

10. 還元主義者の身体離脱の概念は、意識や人格を身体から分離可能なものとして捉える。身体離脱を自己認識や身体イメージの一時的な歪みとして解釈し、認知プロセスの観点から説明するが「それを味わうことがどのようであるか」という主観的な感覚、つまり経験の質的側面(クオリア)は十分に説明しえないと考えられている。

11. システム・マネジメントとは組織の目標達成のために適切な指揮・管理を行うための仕組みである。ISOの各種の規格はPDCAサイクルであるPlan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Act(改善)を継続的に運用することを要求している。

12. 仏陀は「人生は苦である」と説いた。この「苦」とは単なる苦痛だけではなく、「思い通りにならない」という広い意味を持つ。人生には「生・老・病・死」の四苦をはじめとする様々な苦しみ(八苦)が存在し、これらが人間の基本的な経験(人生)であるとした。イリッチの哲学と共振しているように思われる。

13. ブラックボックスとは、内部の構造や動作原理が不明であっても、その機能や使用方法のみを知ることで利用できる装置や概念を指す。イリッチは、自己の概念が複雑で完全には理解されていないにもかかわらず、私たちがそれを単純化して表現しようとする傾向を批判的に指摘している。

14. オートポイエーシスは生命やシステムの本質を説明するために提唱された理論で、「自己(auto)」と「制作(poiesis)」を組み合わせた造語。システムが自律的に自分自身を生成し維持するプロセスを指す。

15. 脱構築は、20世紀フランスの哲学者ジャック・デリダによって提唱された思想で、西洋哲学の伝統的な枠組みや二項対立を解体し、新たな構築を試みる思考法。二項対立とは、二つの概念が互いに矛盾したり対立したりする関係、または一つの概念を二つに分けて、その間に排他的な対立関係を設定することを指す。

16. イリッチの倫理観は、「自律性の尊重」や「無害・善行・公正」といった医療倫理の四原則を超え、「苦しみを受け入れる人間の力」「他者による管理への批判」「人間性と共同体の倫理の回復」といった独自の倫理原則に基づいている。

17. イデオロギーは二つの意味がある。一つは観念が全ての実在の基礎となり実在を形成するという哲学的意味と、もう一つは行動を判断し行動を示す方法としてより良い状態を客観化する考え方という現代的な意味である。ここでは平たく言えば「システム論的な考え方」として大きな間違いはない。今日の日本ではイデオロギーという言葉に対して政治的に否定的な語感を持つようであるが、それは戦前からの苦い経験が影響している。

18. ゲノム(遺伝子情報の総体)と細胞は生命科学の基礎であり、免疫システムの要素である。母親の免疫系は受精卵を異物として認識するが、同時に胎児に対して免疫寛容(攻撃、排除が抑制される)となる。つまり母体と受精卵は相互に認識しあっているという考えが出てくる。イリッチは複雑極まりない生命をこのような免疫機能の概念で理解してよいのか、という疑問を呈している。

19. イリッチは、20世紀前半の経済学と科学的思考の発展に伴う混沌とした様相を批判的に表現している。人間は常に経済的利益を最大化する合理的な存在であるとする見方を「自然界の事実」としてきた。この現代的な概念と、古代の「アニミズム」が同時に存在していたことを指摘している。微生物レベルの生存競争(バクテリアが争う)を観察することが正当化されていたことは、経済的競争の概念を自然界全体に拡大適用することを示唆している。

知的探検への誘い:読者へのアドバイス

  イバン・イリッチの本は翻訳書であれ、原書であれこれが最初だという一般の読者(大学の教養課程程度で専門を問わない)を想定して本書を読む上でのアドバイスを贈ります。 

・イリッチの文体も言わんとする意図も一読で納得することは困難です。彼自身が「歯ごたえある本」と表現しています。それは彼が現代文明批評家であり、哲学者でもあるからです。しかしそれだけではありません。彼の文章スタイルは独特です。以下にそれを説明します。

・この本の原著のスタイルはエッセイです。エッセイは自分の想いを短い文章あるいは断章とし、それを積み上げて主張を強化して行きます。主張表現は研究論文のような厳格で論理的な形式を取りません。研究論文になじんだ学識者の中にはこのエッセイを医療に関する学術論文の類として読み著者の意図を誤解した人もいただろうと思います。

・エッセイですから断定的な主張が多くなります。それは読者に挑発的なインパクトを与えます。このエッセイに対して医療界から多くの反感を買ったのはそのためでもあります。彼の人生後半は権威主義的なキリスト教のあり方に反発するものでした。とは言え彼の思想がキリスト教神学との親和性を持つために、イリッチをなじみにくいものとしています。

・イリッチは物事の象徴性の持つ力を研究していました。象徴とは具体的なものに複雑な概念を託すことです(例えば「鳩は平和の象徴)とされています)。イリッチは中世と現代を結びつけるのに多くの象徴的表現を利用しています。

・イリッチは多義性のある言葉を多く用いています。研究論文では重要な概念、語彙を明確に定義してから使わなければなりませんが、イリッチのエッセイではいきなり出現することも少なくありません。逆説的ですが語彙の多義性を考えることが、訳出する言葉の選択はもちろん著者の意図を推し量る上で如何に重要なのかを教えてくれます。

 ・言葉の多義性はどの言語にもありますが、それは歴史の中で生まれてきたものでそれぞれの時代を反映しています。時代の変化が語彙に多義性を与えることから、多義性を駆使した表現は著者の歴史的な視点と視座を提供します。

 ・暗喩、含意も多用されています。キリストの比喩は明示されていて分かりやすいものですが、ここではそうではありません。暗喩は比喩より明示的でなく断定的であり、さらに含意は字面の背後に著者の意図を忍ばせています。

・イリッチの表現は簡潔で背景的説明が簡略され、必要な背景情報が省かれることが多くあります。そのため文脈や場面が突然変わることに戸惑います。イリッチの文章は想像たくましく読まなければ文脈の流れすら見失いかねません。彼は自身をパンフレット作家であると評しています。

 こうしたことから、ここでは多くの解説を加えました。科学技術も人文の領域も専門的語彙、歴史を踏まえた固有の表現、文脈などは翻訳の域をしばしば超えるからです。本書の本文を読み始めて戸惑いを感じるなら、巻末の翻訳ノートにざっと目を通すのも一つの方法かもしれません。とは言え、読者のためにどれほど役に立つか大きな不安も持っています。哲学の命題(問い)も科学のリサーチクエッションも、出発点は共に本質的にシンプルで素朴なものです。アインシュタインは「もし光より早く移動できたらどういうことが起きるのだろう」という素朴な疑問から出発したと言われています。読者にはイリッチが問う原点はなにかと自ら考え、翻訳(抜粋)と解釈という訳者のフィルターを疑う知的な探検に出かけてほしいと願って訳者の序に代えます。

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